最前線で、分断を緩和する、誇りある仕事

教育

#先生死ぬかも

 

14日(土)の夜中にTwitterで「#先生死ぬかも」のキャンペーンに気づいた。いろいろな先生の叫びを見ているうちに自然と自分のエピソードを書き込んでいた。

 

学校には真面目な人が多い。真面目だから学校の先生をしている、とも言える。これまでの「言われたことをその通りにするという教育」に適応してきたから、基本的に従順なのだ。

 

グチグチ言いながらも、子どもたちに指示通り動くように言っているから、(国や委員会から)「言われたことは自分もやらなきゃ!」とがんばる。そのように感じる。そうした結果、何でも背負いこんで、今の状況になってしまったのだと感じている。

 

 

僕は杉山さんのこのツイートを見て自分の投稿を消した。

ネガティブなツイートの波にさらわれて投稿してしまったけど、「それが自分のしたかったことなのか?」と考えると、そうではないことに気付いた。そして、これらの発信を見た人は良い気持ちにならないだろう。(投稿したときにはそこまで意識がいっていなかった。反省。)

僕は「みん職」が始まる時にTwitter上で揉めているのを見て、わざわざそこに入ることが怖くなり、やめてしまった。これと同じようなことが起こる可能性があるな、と感じた。だから、遅いかもしれないけど投稿を消した。

 

「働き方」については、当然、勤務校によって差がある。また、Twitterをやっていない教員も多くいる。だから、このキャンペーンで言われていることは全てではない。ここでは語られていないこともたくさんある。

だから、教員を志望する人には、今回の一連の動きだけで判断してほしくない。教育に携わる地域の方や家庭にも、色眼鏡で見てほしくない。ブラックばかりが強調されて、学校のイメージがブラックになってしまうと、みんながワクワクした気持ちになりにくい気がする。そんな空気の中で良い教育はできない。

今回のキャンペーンの概要は、こちらが見やすくまとまっていると思う。

学校という場所は、ブラックだけではないのだ。カラフル。そして、色には明確な境目はない。複雑に絡み合っている。他の色がもっと輝けるように、自分ができることを地道に探していきたい。

この割れ切った世界の片隅で

先日、このnoteを読んで心がざわついた。

今、僕が勤めている学校の子どもは、「勉強なんてやらなくてもいい!」が当たり前で、学びに向かう意欲が低い。でも、子どもも保護者もほとんどみんながそういう意識だから、何の違和感も感じていない。僕は今の学校に異動して2年目だから、「なんだこれは!?」とカルチャーショックを受けている。

公立の教員である僕たちは、異動があるから地域性を比較することができる。だから、地域によって「普通」が違うことは周知の事実である。しかし、それは僕たちに限らない。

家を建てたり、引っ越しをするときに、教育に関心がある家庭、もしくは、住む地域を選ぶ余裕のある家庭は、そういったことも意識している。ただ一方で、住む場所を選べない、なぜそんなことを考えなくてはいけないか分からない家庭も存在する。これらのことは、『兼近大樹「“勉強しねぇよ”の理由すら気づけず」 家庭環境で人生が決まる? EXITと考える“教育格差”https://times.abema.tv/posts/7055005』と、すごく結びついているように感じる。

僕にできることは何だろう

結局、僕にできることは、目の前の子どもがより良く成長していくために、できることをするしかない。でも、ここで「#先生死ぬかも」につながるのだけど、言われたことをがんばってきた僕は、言われたことを「こなす」ことに一生懸命になってしまう。感染拡大防止のための休校の対応でもそうだったけど、「自分で考えて動く機会が与えられていない」ことがこのような事態を招いている気がしてならない。だから、教員のマインドセットは変わりにくいし、だからこそ学校も授業も変わりにくい。目立たないように横並びを目指す。

でも、違う。やっぱり目の前の子どものためにできることを、自分で(教員自ら)考えていくことが大切なんだ。それができないと、きっと何も変わっていかない。

今、僕は「自分で学びを見つけられる子」が増えてほしいと考え、休校明けから学習を進めてきた。(この休校で学校や教育についてこれまでにないくらい考えた。)学びを見つけ、学びを楽しむことができる子は、きっと自分の幸せも見つけることができる。他人のせいにするのではなく、自分なりの正解を導き、前に進んでいけるたくましい子どもが増えてほしい。

でも、最近、「育てる」ではなくて「守る」に近いのかもしれないと考えている。「自分がよかれと思って子どもたちにしてきたことが、学びから逃走させてきたのかもしれない」という仮説を立てた。それを確かめるために、宿題の在り方や、授業の在り方を見直し、子どもたちと相談しながら進めている。

新型コロナウィルス感染拡大防止のための休校期間中に受けた、大野睦仁先生の会で聞いた言葉を思い出した。

僕たちは『最前線』で向き合えていることを誇りにして、がんばっていきたいと思う。

僕も、子どもたちに最も近い場所で「できる何かがあるはずだ!」と信じて、これからも足掻いていこうと思う。そして、それはとてもやりがいのあることだと思っている。僕が全てを背負う必要はないけど、子どもたちに一番多く接することができることは事実だ。また、直接僕自身からでなくても、何か一つの体験で変化が起こるかもしれない。

この夏休みまでの「学校」は、これまでのものとは全然違った。苦労もあった。「何でこんな(僕にとっての)当たり前のことができないんだ?」と悩むこともあった。というか、きっと夏休み明けも悩み続ける。

でも、夏休みに入る前に「なんか勉強楽しくなってきたわ!」「もっとがんばるな!」「ちょっと賢くなった気がする。」と直接、声を届けてくれた子がいた。また、僕に対しての「通知表」を書いてもらったのだけど、正直に想いを書いてくれたり、励ましの言葉があったりした。

それだけで、僕は「がんばってよかった!」と思う。そして、「また、がんばろう!」という気持ちになる。公立の「普通」の学校に勤める僕たちにしかできないことは絶対あるし、「普通」の差がなるべくなくなるように努力していきたいと、今回より一層感じた。

僕はこの仕事を「魅力的な仕事」だと胸を張って言える。

もちろん、しんどくなったり、「どうしてこんなことをするのだろう?あるいは、もっと別のやり方もあるのに変えないの?」と思うことはある。全てが魅力的ではない。ただ、それを差し引いても、僕にとっては、最前線で分断を緩和することのできる可能性を秘めた「魅力的な仕事」なのだ。

 

今回のことの「正解」は分からない。だからこそ、自分で考えて判断していくことが必要であって、難しい問題だなぁ、と改めて思った。

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